ロイズのオプ(保険調査員)である平賀=キートン・太一は、オックスフォード大学を卒業した考古学者であると同時に、元SAS(英国特殊空挺部隊)のサバイバル教官でもあった。キートンの夢は幻のドナウ文明を発掘すること。本人は考古学の研究に専念したいと思っているが、職もままならない。発掘費用のために調査員を続けるも、過去の経歴からいろいろな依頼が舞い込み、次々と危険な目に遭ってしまう……。
「MASTERキートン」は、1988年から1994年にかけてビッグコミックオリジナルに連載された、浦沢直樹・勝鹿北星・長崎尚志による漫画作品である。一時的に増刷が中断され入手困難になっていたが、多少改変はあるものの完全版という形で刊行されたので、改めて紹介しておきたい。
本作品は1話完結のスタイルであり,世界の各地でさまざまな事件に関与する形式となっているため、読者は古代文明やヨーロッパの社会情勢、民族問題などさまざまな話題に触れることができるようになっている。東西冷戦末期からソ連崩壊後の社会情勢、ヨーロッパ・中東の古代文明に興味のある人にとっては最高の作品と言えるだろう。
また、主人公がサバイバルの専門家なので、その知識を生かして危機から脱出するシーンもこの作品の見どころの一つだ。普段はおっとりしていて頼りなさそうに見えるキートンだが、危険な状況に追い込まれると無類の強さを発揮する。身の周りにあるものを巧みに利用して戦う姿は実に魅力的だ。
例えば、第1巻に「砂漠のカーリマン」という話がある。シルクロードで発掘された16世紀の壁。それはウイグル族の宗教遺跡だったが、日英合同の発掘隊はキートンの助言を聞き入れず、壁の撤去を強行。族長の怒りを買ったキートン達はタクラマカン(生きては戻れぬ)砂漠に置き去りにされてしまう。
砂漠にスーツで現れたキートンを発掘隊の面々は最初バカにする。だが、スーツには直射日光を避け、通気性にも優れているという利点があったのだ。ジャコウネズミを捕まえ、水を作り、北極星の高度から現在地を割り出すキートン。幕切れの一言もシリーズを代表する名台詞であるこの話は、本作のエッセンスが詰まった素晴らしいストーリーであった。
このように書いていくとシリアスな話ばかりが続くような印象をもたれるかもしれないが、実際はホームドラマと呼んで差し支えないような家族や友人との微笑ましいエピソードも数多く登場する。探偵業と学問の間での葛藤や、トラブルメーカーの父とのユーモアあふれるやりとり、父を慕う娘や離婚した妻への思いなど、キートンのことを完全無欠の超人ではなく、弱さを持つ普通の人間としてもきちんと描いている。
専門的な話も多く勉強になるのだが、知識をひけらかすような嫌味な感じをまったく受けないところに、作者の非凡な才能を感じた。心理描写も素晴らしく、何度読み返しても飽きない。最初に読んだのは学生時代であり、あれから20年以上が経過しているのに、今読み返しても古臭く感じないのは驚きに値する。
好きなエピソードを5つだけ挙げるなら、「砂漠のカーリマン」は別格として、「シャトーラジョンシュ1944」「屋根の下の巴里」「赤い風」「アザミの紋章」「臆病者の島」あたりだろうか。
先日、ある人と食事しているときに「一番好きな漫画はなんですか?」という質問を受けた。しばし考えたのち、自然と口からこぼれたのが「MASTERキートン」だった。まったく意識していなかったが、自分が読んできた漫画の中でも、非常に重要なポジションをこの作品は占めていたのだろう。
「MASTERキートン」は漫画史に残る名作だと思う。2012年から続編の不定期連載も始まっているので、単行本化を心待ちにしたい。