「あたしはいきます。でも、いつかかえってきます。蝶が死んでも、翌年また、美しくよみがえってくるように」 23年前、謎の言葉を残し、突然姿を消した一人の女。当時、鍾乳洞殺人事件の容疑者だった彼女は、成長した娘と共に疑いをはらすべく、今、因縁の地に戻ってきた。だが、その彼女の眼の前で再び忌わしい殺人が起きる。被害者の胸には、あの時と同じく剣のように鋭い鍾乳石が……。
本書は表題作である「不死蝶」と「人面瘡」の2篇を収録した横溝正史の推理小説。いずれの作品も名探偵・金田一耕助が活躍する。“あたしは妹を二度殺しました”という台詞が印象的な「人面瘡」は、すでに短編集「人面瘡」の方で感想を書いたので、ここでは「不死蝶」について述べることにしたい。
不死蝶
「不死蝶」は昭和28年6月から11月まで雑誌「平凡」に連載され、昭和33年に加筆・長編化して単行本が刊行された。なお、本作品の舞台となる信州の射水は架空の地名で、富山県射水市とは無関係である。実家が富山県にあるので、この点は少々残念であった。
湖畔の町・射水で両大関といわれるのが矢部家と玉造家。先祖代々にわたる仇敵の間柄だけに、矢部慎一郎と玉造朋子のロミオとジュリエットのような関係も悲劇的な結末をむかえたのだが、朋子を捕まえようとした矢部英二が鐘乳洞で殺されるという事件が発生してしまう。23年前の夏に起きたこの出来事が、すべての始まりだった。
矢部杢衛からの依頼で金田一が射水の町を訪れたころ、ブラジルでコーヒー王の養女となり、莫大な財産を手にしたことで新シンデレラ姫と新聞に書き立てられている鮎川マリも玉造家に逗留していた。表向きは静養のためということだったが、真の目的は矢部英二殺害の容疑者とされている玉造朋子の無実を明かすことにあった。
本当に玉造朋子は底なし井戸へとびこんで亡くなったのか。鮎川君江と玉造朋子は同一人物なのか。井戸のそばに残された書置きはいったいどういう意味なのか。いくつかの思惑が交差するなか、鐘乳洞の中でふたたび殺人が起きてしまう。しかも、鍾乳石を使った刺殺といい、女性が井戸に飛び込んだらしいことといい、事件の様相は23年前とまったく同じだった……。
鍾乳洞での殺人というと、金田一がかつて手がけた事件である「八つ墓村」が思い起こされるが、本作品での洞窟探検もスリリングで面白い。蝙蝠の窟、とどかぬ窟、底なしの井戸、逃げ水の淵など、広大な鐘乳洞の中を金田一たちが奥に進めば進むほど、想像を超えた地底世界が広がっていくので読んでいて楽しかった。
若かりしころ、はげしい恋におちた玉造乙奈と矢部杢衛のエピソードも印象的だ。杢衛は矢部家の相続権を放棄してでも乙奈の良人たらんことをのぞんだが、とつぜん乙奈が他から婿をむかえてしまい、怒った杢衛は玉造家を激しく憎むようになってしまう。生涯憎みあってきたふたりが、鍾乳洞の奥深くでようやく長い苦しみから開放され、愛する杢衛のそばで乙奈が泣く場面には深く心打たれた。
<登場人物>
矢部杢衛 … 玉造家と敵対する矢部家の当主。金田一の依頼人。
矢部慎一郎 … 杢衛の長男。学究肌の性格で父や妻と対立。
矢部峯子 … 慎一郎の妻。愛嬌にとぼしい見識ぶった女。
矢部都 … 慎一郎のひとり娘。美人だが淋しそうなかげがある。
矢部英二 … 杢衛の次男。23年前、鍾乳洞のなかで殺された。
宮田文蔵 … 峯子の兄。矢部家の番頭格。口数少なく如才ない。
古林徹三 … 満州から引揚げてきた矢部家の親戚。頬に疵痕。
玉造朋子 … 矢部英二殺害の容疑者。底なし井戸へとびこむ。
玉造乙奈 … 年老いても誇り高い玉造家の当主。朋子の母。
玉造由紀子 … 乙奈の孫。近眼らしくロイド眼鏡をかけている。
玉造康雄 … 由紀子の兄。気むずかしい。矢部都とは恋人同士。
田代幸彦 … 康雄の親友。ブラジルに招聘されたテニスの選手。
アルフォンゾ・ゴンザレス … ブラジルのコーヒー王。資産家。
鮎川マリ … ゴンザレスの養女。日系二世。玉造家に逗留中。
鮎川君江 … マリの母。ゴンザレスに長年重用され信頼を得る。
河野朝子 … マリの家庭教師。東京にある女子大の元教師。
カンポ … 君江とマリの用心棒。ブラジルうまれの若者。
お作 … 臨時に手伝いをたのんだ土地の女。
ニコラ … 教会の神父。教会の裏には鍾乳洞の入口がある。
パウル … 23年前教会にいた神父。玉造朋子を可愛がっていた。
白川雪絵 … 岡林の町にある料理屋「みよしの」のマダム。
立花老人 … 射水の町長。
神崎署長 … 射水の町の警察署長。鍾乳洞の捜索を指示。
江藤警部補 … 鍾乳洞の捜索において金田一のいる部隊を指揮。
金田一耕助 … 雀の巣の頭にくたびれた着物袴。ご存知名探偵。