浴室の鍵穴を覗いた金田一耕助の眼に異様な光景がとびこんできた。噴射しつづけるシャワーの雨、その下には胸部に白塗りの矢を射ちこまれた男の変死体が。弓の収集家として名高い考古学者の古館博士が開催した粋狂な弓勢くらべ。博士の愛娘早苗の婿選びが目的のこの競技で、三人の候補者のうち一人がみごと的を射とめた。だがその直後、競技に参加した若者が殺害された……。
本書は表題作である「死神の矢」と「蝙蝠と蛞蝓」の2篇を収録した横溝正史の推理小説。いずれの作品も名探偵・金田一耕助が活躍する。金田一が蝙蝠男扱いされ、殺人事件の犯人として小説に書かれてしまう愉快なエピソード「蝙蝠と蛞蝓」は短編集「人面瘡」の方で感想を書いたので、ここでは表題作の「死神の矢」について述べることにしたい。
死神の矢
「死神の矢」は昭和31年3月「面白倶楽部」に短篇として発表され、その後長編化された作品。考古学者で弓の蒐集家としても知られる古館博士は、娘の早苗に3人の青年が同時に求婚したため、奇抜な婿選びを強行する。ギリシャ神話の英雄ユリシーズの妻ペネローペが行った婿選びのように、トランプのハートのクイーンを的として波間に浮かべ、それを射抜いたものを娘と結婚させるというのだ。
ところが、婿候補のひとりが心臓を矢で射抜かれた状態で発見されたところから事態は急変する。偶然博士の屋敷に居合わせた金田一耕助は、早苗の友人だったバレリーナ三田村文代が一年前に服毒自殺を遂げていたことを知る。はたして文代の自殺と今回の事件に関連があるのか金田一が推理していた矢先、今度は別の婿候補が犠牲者となったのであった……。
美しい令嬢にろくでなしの求婚者たち、弓比べでの婿選びと舞台設定はよく出来ている。重要なアイテムとして弓と矢が登場することや、古舘博士とヘンリー・メリヴェール卿の相似など、横溝が敬愛する作家ジョン・ディクスン・カーの影響を強く感じた。
ヒロインの婿候補が次々と殺されていく点は「女王蜂」と似ているが、話の展開はまったく異なる。主人公が活躍する女王蜂と比べ、こちらは脇役がいい味を出しており、バレーの師匠である松野田鶴子や、オネスト・ジョンの情婦朱実など強く印象に残った。細かいところで気になる点はあるものの、弓比べで放った自らの矢によって殺されていくという筋書きも面白い。
本作での金田一耕助はあまり活躍しないどころか、連続殺人が終わるまでわざと事件を解決しなかったように見受けられるのだが、それもまた金田一の優しさなのだろう。最後に真相が語られるとき、話を聞く人々の眼から涙があふれ落ちるが、金田一自身もたえきれず目頭を指でおさえてしまう。それほど哀しくも胸をうたれる物語であった。
<登場人物>
古館博士 … 考古学者で弓の蒐集家。奇抜な婿選びを強行する。
古館操 … 古館博士の妻。早苗が七つの時に交通事故で死亡。
古館早苗 … 博士の娘。バレリーナ。三人の男から求婚される。
佐伯達子 … 操の死後雇いいれられた早苗の家庭教師。
加納三郎 … 古館博士の助手。身分違いの早苗に思いを寄せる。
お君 … 古館家の女中。
お菊 … 古館家の女中。
高見沢康雄 … 早苗の求婚者。金持ちの道楽息子。
神戸大助 … 早苗の求婚者。金持ちの道楽息子。
伊沢透 … 早苗の求婚者。金持ちの道楽息子。
松野田鶴子 … 松野バレー研究所の経営者。孤児の文代を養う。
三田村文代 … 早苗のバレー友達。睡眠剤の飲みすぎで死亡。
相良恵子 … 早苗のバレー友達。
河合滝子 … 早苗のバレー友達。
八木健一 … 貸しボート屋ちどりで働く少年。三本の矢を盗む。
美代 … 貸しボート屋ちどりの看板娘。
駒田準 … 元プロボクサー。キャバレーの用心棒をしている。
杉原朱実 … 駒田準の情婦。キャバレー「焔」のダンサー。
田口京子 … 神部大助と関係のある女のひとり。
内山警部補 … 所轄の捜査主任。女王蜂事件で金田一とは旧知。
川合刑事 … 所轄警察の刑事。
井筒刑事 … 所轄警察の刑事。
古川刑事 … 所轄警察の刑事。
江藤刑事 … 警視庁の刑事。
等々力警部 … 警視庁捜査一課所属の警部。金田一耕助の相棒。
金田一耕助 … 雀の巣の頭にくたびれた着物袴。ご存知名探偵。