その昔、薄倖の女が首を縊った忌まわしき旧法眼邸。明治から戦前まで盛隆を極め、“病院坂”という地名にまでなった大病院の屋敷跡であった。本條写真館の息子直吉は、ある晩そこで奇妙な結婚記念写真を依頼された。住む人もない廃屋での撮影は、不吉な出来事を暗示しているようであった。数日後、再び撮影で屋敷を訪れた直吉は、そこに鮮血を滴らせ風鈴の如くぶら下った男の生首を発見するが……。
「病院坂の首縊りの家」は横溝正史の長編推理小説。昭和50年12月から昭和52年9月まで「野性時代」に長期連載された作品で、昭和29年7月に「宝石」で連載がスタートした「病院横町の首縊りの家」という未完の短編が原型となっている。杉本一文氏による表紙絵は本作の特徴を見事に描き出しており、横溝作品の中でもお気に入りの一つだ。
角川文庫のKindle版で金田一耕助シリーズを読み始めたときから、最後に読むのはこの「病院坂の首縊りの家」にしようと決めていた。それはこの作品が名探偵・金田一耕助が挑む最後の事件であり、金田一の相棒である等々力警部にとっても最後の物語だからである。読み終えた時の寂しさは言葉にできないものがあった。
本作は第一部「輪廻の章」、第二部「転生の章」の二部構成となっており、後編でようやく20年前に迷宮入りした事件の真相が明らかにされる。この壮大なスケールの物語について、まずはあらすじから紹介したい。
第一部「輪廻の章」(上巻)
昭和28年8月。金田一耕助は法眼病院の理事長である法眼弥生から、孫娘の由香利が誘拐されたので調査してほしいという依頼を受ける。時を同じくして金田一は、本條写真館の跡取りである直吉から奇妙な結婚写真にまつわる相談を受けていた。現在は廃墟となっている旧法眼邸に出張し、記念写真を撮らされたというのだ。その廃墟は「病院坂の首縊りの家」と呼ばれているという。
かつて病院坂の法眼邸では、山内冬子という哀れな女性の首吊り自殺があった。その女性は法眼弥生の夫・琢也の愛人だったが、戦争を機に幸福から転落し、空爆で死亡した琢也の終焉の地ともいうべき場所で縊死したのである。彼女には継子の敏男と、琢也との間にできた小雪という娘がいたはずだが、二人の消息は杳として知れなかった。
調査を進める金田一は、その結婚写真に花婿として収まっているのが、ジャズ・コンボ「怒れる海賊たち(アングリー・パイレーツ)」のリーダーを務める山内敏男であることを察知する。また、前後不覚の状態で花嫁衣裳を着せられているのは、小雪ではなく誘拐された由香利ではないかと推理していた。しかし、容疑者と目されていた敏男の生首が、「病院坂の首縊りの家」で風鈴のように吊るされて発見されるのだった……。
父来たり母いそいそと子らふたり、
心まろやかに眠るなりけり……天竺浪人
第二部「転生の章」(下巻)
自ら犯人だと告白する手紙を送ってきた山内小雪は行方不明となり、そのまま迷宮入りしてしまった「生首風鈴事件」。あれからおよそ20年が経過した昭和48年4月、金田一耕助は本條直吉から再び依頼を受ける。何者かに命を狙われていること、その原因は父・徳兵衛が長年にわたり法眼弥生を強請っていたことにあると告げたうえで、自分が殺されたら真実を明らかにしてほしいと懇願するのだった。
警視庁を定年退職し秘密探偵事務所を開設した等々力元警部の元を訪れ、ともに直吉の身辺警護にあたる金田一であったが、その努力も空しく直吉は転落死してしまう。これを皮切りに「怒れる海賊たち(アングリー・パイレーツ)」の元メンバーを狙った連続殺人事件が発生。その容疑者として浮上したのは、法眼由香利の一人息子であり、山内敏男の面影を色濃く残す法眼鉄也だった……。
風鈴はいとしからずや語り合う、
ふたりの窓に鳴りつづけいて……琢也
この恐ろしい物語は昭和28年8月28日にはじまり、昭和48年4月30日にやっと解決したという、金田一耕助の扱った事件としては他に類を見ないほど長年月を要した事件である。その間じつに19年と8ヶ月。金田一の手腕をもってしても、病院坂の首縊りの家における「生首風鈴事件」は容易に解決できぬ事件だったと言えるだろう。
山内敏男の挽き切った生首を風鈴になぞらえてぶら下げてあったというが、はたして首から下はどこへ行ってしまったのか。また、自らを犯人だと告げる手紙を送ってきた敏男の妻・小雪はその後どうなったのか。法眼弥生が頑なに守ろうとした秘密とはいったい何だったのか。これらの謎は20年もの年月を経て、ようやく明らかになるのであった。
シリアスな本作だがユーモラスな場面も用意されている。事件現場の広いホールは一面が血飛沫に覆われており凄惨を極めるものであったが、そんな場所でも「だって、あそこにヨカナーンの首がある以上、どこかにサロメがいるはずだからね。わっはっは」と冗談をとばす等々力警部と、この上司に向かってまっこうから噛みつきそうになる高血圧の真田警部補という組み合わせは愉快だった。
柄にもなく探偵みたいに病院坂の空家を探検し、金田一に懐中電燈で脅されたあげく、女房に無断外出だと叱られふてくされる横溝正史も微笑ましい。だが、空家へ潜り込んだ正史が鼠の穴から発見した、風鈴にぶらさがっていたと推測される短冊と、その裏に棒紅で走り書きされた「助けて 由香利」という言葉が、金田一がこの事件を推理するうえで大いに役立つのである。
池の端池を渡りて吹く風に、
鳴る風鈴の音ぞ哀しく……琢也
事件解決後、金田一耕助はこれまで世話になった山崎老夫婦やあちこちの施設に全財産を寄付したのち、アメリカへ旅立ち消息不明となる。「本陣殺人事件」から36年という月日が経過し、「病院坂の首縊りの家」は金田一耕助と等々力警部にとって最後の事件となった。著者はこの後、もう一人の相棒である磯川警部の花道を飾る作品として「悪霊島」を書き上げているので、併せてお読みいただければ幸甚の至りだ。
ところで、「病院坂の首縊りの家」は市川崑監督の映画版でご存じの方も多いのではないだろうか。大長編である原作をそのまま映画化することは出来ないため、原作では解決まで20年近くかかった迷宮入り事件を数ヶ月に短縮したり、事件の展開や登場人物にも数々の改変が加えられたりしてまったくの別物になっている。結末も原作と異なるが、あの坂道での美しいラストシーンには強く心を動かされた。
映画版「病院坂の首縊りの家」の見どころは、何と言っても桜田淳子が一人二役で演じている法眼由香利と山内小雪である。ジャズ・コンボ「怒れる海賊たち(アングリー・パイレーツ)」のボーカルとして、「It’s Only a Paper Moon」を歌う姿はとても魅力的だった。本書の余韻に浸りつつ、映画の方もまた観てみたいと思う。
<第一部「輪廻の章」登場人物>
法眼琢磨 … 東北のさる大藩の典医。鉄馬に英才教育を施した。
法眼鉄馬 … 琢磨の長子。法眼病院創設者。汚職で陸軍を辞す。
法眼朝子 … 鉄馬の正妻。剛蔵の娘。子供ができなかった。
法眼千鶴 … 鉄馬の異母妹。夫健一の死後、猛蔵と再婚した。
法眼琢也 … 鉄馬の養子。すみの息子。歌集「風鈴集」を残す。
法眼弥生 … 千鶴と健一の娘。琢也の妻。法眼病院理事長。
法眼万里子 … 琢也と弥生の娘。鬼っ子。山内冬子を酷く罵る。
法眼三郎 … 万里子の夫。法眼病院内科医。夫婦で事故死した。
法眼由香利 … 万里子と三郎の娘。無軌道な性格で誘拐される。
宮坂すみ … 鉄馬が陸軍軍医時代に深く契った女。妾となる。
桜井健一 … 千鶴の夫。日清戦争の際、澎湖島で散華した。
山内冬子 … 琢也の妾。小雪が実娘で敏男は継子。自殺した。
山内敏男 … ジャズ・コンボ「怒れる海賊たち」のリーダー。
山内小雪 … 「怒れる海賊たち」のソロシンガー。敏男の義妹。
秋山風太郎 … 「怒れる海賊たち」のピアノ。山藤道具店の倅。
佐川哲也 … 「怒れる海賊たち」のドラム。敏男が左目を潰す。
原田雅実 … 「怒れる海賊たち」のテナーサックス。元配線工。
吉沢平吉 … 「怒れる海賊たち」のギター。元銀行員。及び腰。
加藤謙三 … 「怒れる海賊たち」の見習い。好奇心が強い少年。
五十嵐剛蔵 … 法眼琢磨の盟友。堂々たる政商。鉄馬の舅。
五十嵐猛蔵 … 剛蔵の倅。朝子の弟。我執の強い俗物。道楽者。
五十嵐泰蔵 … 千鶴と猛蔵の息子。孤独で異父姉の弥生を慕う。
五十嵐光枝 … 泰蔵と駆け落ちし妻となる。元女中。旧姓田辺。
五十嵐透 … 泰蔵と光枝の息子。若い頃女を作り滋が産まれる。
五十嵐滋 … 透の息子。泰蔵の養子。デブ。由香利に惚れる。
本條権之助 … 芝高輪の泉岳寺そばにある本條写真館の創始者。
本條紋十郎 … 権之助の息子。本條写真館の二代目。
本條徳兵衛 … 紋十郎の息子。本條写真館の当主。
本條直吉 … 徳兵衛の頼りない跡継ぎ。金田一の依頼人。
兵頭房太郎 … 戦災孤児だったのを徳兵衛が拾い弟子にした。
杉田誠 … 芝高輪郵便局の局員。病院坂の空家で死体を発見。
山田吉太郎 … 杉田誠と一緒に空家へ踏み込んだ近所の住人。
伊藤泰子 … 佐川哲也が住む「いとう荘」の大家。戦争未亡人。
伊藤貞子 … 泰子の娘。独身。女性居住者のよき相談相手。
井上良成 … 詩壇の大家。レコード界の大御所的存在。酒豪。
井上美禰子 … 良成の後妻。元歌手。夫婦で麻雀に眼がない。
森ひろし … 井上良成に発掘された演歌歌手で麻雀仲間。
横溝正史 … 探偵作家。砧の隠居。金田一は成城の先生とよぶ。
お妙 … 正史が金田一を招いた銀座の上方料理ひさごの女中。
張潮江 … 探偵小説誌ジュエルを主催。詩人張嘉門。正史の友。
天竺浪人 … 詩集「病院坂の首縊りの家」の著者。山内敏男。
多門修 … クラブK・K・Kの用心棒。前科者。金田一の助手。
風間俊六 … 風間建設社長。金田一の旧友でパトロン。
お清 … 金田一が居候している割烹旅館「松月」の女中。
古垣博士 … 高名な法医学者。金田一耕助や等々力警部と昵懇。
加賀助手 … 古垣博士の助手。
山本先生 … 高輪署の嘱託医。
真田警部補 … 高輪署の捜査主任。金田一の協力に感謝感激。
芥川警部補 … 大崎署の捜査主任。口が悪く通称は悪たれ川。
塩月警部補 … 渋谷署の捜査主任。福徳円満。温顔の持ち主。
加納刑事 … 高輪署の刑事。山内冬子の縊死事件を担当。
坂井刑事 … 大崎署の刑事。山内兄妹のギャレージへ急行。
新井刑事 … 警視庁捜査一課所属の刑事。等々力警部の腹心。
寺坂巡査 … 病院坂上派出所配属。本條らと生首風鈴を発見。
葉山巡査 … 寺坂巡査と交替し現場へ。本條写真館と馴染み。
今西巡査 … 葉山巡査と交替した同僚。
等々力大志 … 警視庁捜査一課所属の警部。金田一耕助の相棒。
金田一耕助 … 雀の巣の頭にくたびれた着物袴。ご存知名探偵。
<第二部「転生の章」登場人物>
本條徳兵衛 … 本條会館を急成長させた恐喝者。直腸癌で死亡。
本條直吉 … 徳兵衛の倅。本條会館会長。金田一の依頼人。
本條文子 … 直吉の妻。非常な良妻賢母。
本條徳彦 … 直吉の倅。年齢も高校も一緒の法眼鉄也は親友。
本條直子 … 直吉の娘。徳彦の妹。
石川鏡子 … 直吉の秘書。
加山又造 … 直吉が所有するリンカーンの運転手。
伊東俊吾 … 本條会館の専務で支配人を兼ねている。
高畑英治 … 本條会館の背後に建つ「温故知新館」管理主任。
兵頭房太郎 … 本條会館を辞めたのち人気ヌード写真家になる。
チャコ … ヌード・モデル。房太郎とは親しい間柄。
法眼弥生 … 法眼家の実権を握る女傑。由香利以外は面会せず。
法眼由香利 … 弥生の孫。五十嵐産業会長。法眼病院の理事長。
法眼滋 … 由香利の婿養子。五十嵐産業社長。本條会館の重役。
法眼鉄也 … 由香利の息子。海外育ち。目下浪人中。
五十嵐光枝 … 滋の祖母。鉄也の曾祖母。肥満体で愚痴が多い。
喜多村博士 … 法眼病院院長。琢也の愛弟子。弥生の主治医。
遠藤多津子 … 喜多村博士の指示で弥生に付き添う看護婦。
里子 … 法眼家で一番年の若い女中。
関根美穂 … 法眼鉄也の幼馴染で恋人。
関根健造 … 美穂の父。外交官。今も外国に住んでいる。
関根玄竜 … 美穂の祖父。有名な彫刻家。日本で美穂を預かる。
関根いと子 … 玄竜の妻。夫婦揃って孫の美穂に眼がない。
関根竜一郎 … 健造の兄。大学教授。美穂はなぜか馴染めず。
関根幾久子 … 竜一郎の妻。外聞ばかり気にする教育ママ。
町田啓子 … 美穂の友人。「ザ・パイレーツ」の熱烈なファン。
佐川哲也 … 「ザ・パイレーツ」のバンドマスター。片眼帯。
伊藤貞子 … 哲也が青山に構える豪華マンションの家政婦。
秋山浩二 … 毎年ヒット曲を出す人気作曲家。哲也と交流あり。
原田雅実 … 御徒町で原田商会という電気器具商を営む。
加藤謙三 … 銀座界隈で流しの演歌歌手をしている。
吉沢平吉 … 三栄日曜大工センターのマネージャー。陰々滅々。
倉持六助 … 三栄日曜大工センター社員。仕入れ部所属。
早瀬藤造 … 三栄日曜大工センター社員。
香川信治郎 … 三栄日曜大工センター社員。
山本七郎 … 三栄日曜大工センター社員。
お八重 … 日曜大工センターの近所にある赤提灯ちぐさの店員。
山上良介 … 吉沢平吉に接触してきた初老の紳士。自宅に招く。
風間俊六 … 風間建設社長。金田一の旧友でパトロン。
菊池寛子 … 風間のかつての愛人。クラブK・K・K共同経営者。
多門修 … ナイト・クラブK・K・Kの総支配人。金田一の崇拝者。
山崎 … 金田一が無償で住んでいる緑ヶ丘マンションの管理人。
山崎よし江 … 山崎の妻。金田一耕助のハウス・キーパー。
加納警部 … 警視庁捜査一課所属の警部。合同捜査を統率する。
等々力栄志 … 警視庁の警部補。等々力大志の倅。
甲賀警部補 … 高輪署の捜査主任。
栗原警部補 … 玉川署の捜査主任。
真田警部補 … 20年前の捜査に関わっていたが高血圧で死亡。
等々力大志 … 退職後に開設した等々力秘密探偵事務所の所長。
金田一耕助 … 雀の巣の頭にくたびれた着物袴。ご存知名探偵。